東京高等裁判所 昭和63年(う)622号 決定 1992年1月31日
主文
本件控訴は、平成三年四月二三日被告人がした控訴取下により終了したものである。
理由
本件控訴の取下に関する弁護人らの主張は、弁護人岡崎敬、同大西啓介連名作成名義の平成三年一二月一八日付意見書記載のとおりであるから、これを引用する。
所論は、要するに、(一)被告人は、本件控訴取下書を提出した当時、控訴取下の意味を認識し、理解できる訴訟能力を有していなかったから、本件控訴取下は無効である。(二)かりに、被告人に訴訟能力があったとしても、被告人は、精神鑑定を回避する手段として本件控訴取下に及んだもので、それにより直ちに原審の死刑判決が確定するとは思っていなかったから、右取下は、被告人の真意にでたものではなく、無効である。(三)かりに、本件取下が有効であるとしても、被告人は、平成三年一〇月一九日付の実母宛の手紙で、控訴取下を撤回する意思を表明し、次いで、同年一一月一八日の事実取調べ期日において、裁判所に対し、控訴取下を撤回する意思表示をしたから、本件控訴取下は有効に撤回された。以上のとおり、本件控訴は継続しており、終了していないというのである。
そこで、所論にかんがみ、一件記録に当裁判所における事実取調べの結果を合わせて検討すると、以下に説明するとおり、被告人は、本件控訴取下書の提出当時、その訴訟能力に欠けるところはなく、右控訴取下に行為が訴訟にもたらす効果等をも充分に認識したうえで、敢えて控訴取下に及んだものであるから、これを無効とすべき理由はなく、また、有効な控訴取下が行われた以上、取下を撤回することによって、いったん終了した訴訟状態を復活させることはできない。
一 本件控訴取下の経緯
被告人は、本件殺人及び窃盗被告事件について、昭和六三年三月一〇日横浜地方裁判所において、死刑判決の宣告を受けて即日控訴し、当裁判所において審理中であったところ、平成元年七月一〇日の当審第一回公判期日及び同年九月一一日の同第二回公判期日において、「もう助からないから、控訴をやめたい。」という趣旨の発言をし、裁判長から重要な事項なので、弁護人とよく相談してから決めるようにと諭され、またそのころ、被告人は、東京拘置所の職員や接見のため訪れた弁護人に対しても、しばしば「控訴を取り下げたい」旨の発言をし、弁護人が、被告人をその都度説得して思いとどまらせ、拘置所職員にも被告人のこの種の要求を取り上げることのないように依頼するなどしていた(弁護人の平成三年四月二七日付上申書)。ところが、平成三年四月一〇日の第一一回公判期日において、弁護人が、かねてから請求していた被告人の犯行時及び現在の精神状態に関する精神鑑定を、当裁判所が採用した際、被告人は、精神鑑定を拒否し、要求が容れられないなら控訴を取り下げるなどと発言したうえ、同月一八日には、東京拘置所において、控訴取下に必要な手続や書類の交付を強く求めるに到り、同月二三日拘置所からの連絡を受けた岡崎弁護人との接見及び拘置所職員による事情聴取等の手続を経て、控訴取下書用紙の交付を受け、所要事項を記入して同日付の控訴取下書を作成したうえ、これを東京拘置所長に提出したものである。
二 当裁判所の事実取調べの経過及び結果
当裁判所は、平成三年五月一〇日被告人を審尋して本件取下書提出の動機及び経緯等について、その真意を質した。被告人は、裁判所及び訴訟関係人の質問に対し、あまり多くを語らなかったが、四月二三日付の控訴取下書は、被告人が自ら作成したことを認め、これを作成した動機は、「世界で一番強い人に生きているのがつまらなくなるよう、魔法をかけられているので毎日が凄く苦しいこと、それで、控訴をやめれば、早く死刑になって、楽になると思った、」からと供述した。
当裁判所は、被告人の右供述にかんがみ、被告人の現在の精神状態、とくに被告人が本件控訴取下書を提出した時点において、同人に控訴取下等の行為が訴訟上持つ意味を理解して行為する能力があったか否かを含めて、慶応義塾大学医学部名誉教授医師保崎秀夫に鑑定を命じた。同鑑定人は、関係記録を検討し、同年六月一〇日以降同年八月二〇までの間に、六回にわたり被告人に面接して鑑定作業をすすめたが、その間被告人は、鑑定人の再三に亘る説得にもかかわらず、身体的及び精神的諸検査を拒否した。そこで、右鑑定人はやむなく被告人との面接結果を中心に鑑定を行い、同年九月一三日付で精神鑑定書を提出した。
当裁判所は、本件が死刑判決に対する控訴の取下という訴訟法上重大な効果を伴うものであることから、その効力の有無を慎重に検討するため、同年一一月一八日同鑑定人に対する証人尋問を行い、被告人の精神状態の把握及びその訴訟能力の有無に関する疑問点の解消に努めた。
右鑑定書及び鑑定人に対する尋問結果を総合すると、被告人は、鑑定人の面接の際には、明るい表情で、また大声できちんとあいさつし、一般的な質問には嫌がらずに答えるが、質問の内容によっては黙ったり、別の質問をして答えをはぐらかしたりすること、言語は、時にどもったり子供っぽい話し方になるが、いわゆる言語障害はないこと、返答に窮したり、答えたくない質問に対しては、首を曲げたり、両手指を動かしたり、指先をじっと見つめるような行動をするが、神経疾患を疑わせるものはないこと、犯行の内容等については殆ど触れたがらないが、姿の見えない世界で一番強い人が、被告人の小さいころに暗示や魔法をかけてきて、その影響で本件各犯行を行ったという趣旨の説明をしており、これは妄想的な内容であるが、被告人の現状、願望、空想などからある程度了解できるもので、拘禁反応に基づくものと思われること、しかし、精神分裂病その他の精神病を疑わす所見は見いだされないこと、被告人は、鑑定人に対し、控訴取下は自分で決めたことで、その動機についても裁判所に述べたのと同趣旨の説明をしており、また、自分が訴訟のどういう段階で控訴を取り下げたのか、そのもたらす結果がどういうものかについても良く認識、理解していること等が認められる
以上の面接時の所見を基本として、鑑定人は、被告人の現在の精神状態について、被告人は、拘禁反応の状態にあるが、控訴取下書を作成、提出した時点において、被告人に控訴取下等の行為が訴訟上持つ意味を理解して行為する能力は、多少の問題はあるにしても、失われている状態にはないと判定している。そして、ここに多少の問題というのは、前記の被告人の知的な能力は下っていないのに子供っぽい応答状態、犯行が被告人の意志によらないとする広い意味での妄想、事件の内容を聞かれたのに対して、もう答えたなどと応答してそれ以上に述べようとしない等の特異な精神状態等に見られる拘禁反応を指しているが、それらはいずれも被告人にとって、訴訟行為等の意味を理解して行為するうえで障害となるような性質、内容のものではない、というのである。なお、本件鑑定は、被告人の拒否にあって、身体的及び精神的諸検査を行うことができないままでするほかなかったが、それでも面接ないし問診は、必要な限度では円滑に行うことができ、そして、本件の鑑定をするにあたっては、面接ないし問診の結果が重要で、身体的及び精神的諸検査は、その裏付け資料を得る程度の意味しか持たないから、右諸検査を行うことができなくても、そのことが鑑定資料の不足を生じさせたり、鑑定結果の正確性に影響を及ぼすことはないとされる。
三 本件控訴取下の効力について
そこで、本件控訴取下の効力について判断する。
まず、控訴取下当時における被告人の訴訟能力について検討するに、前記鑑定書及び鑑定人の尋問結果によれば、精神医学的見地から見て、当時の被告人の訴訟能力に欠けるところはないとされているところ、被告人は、前記のとおり、当審の審理当初のころからしばしば控訴取下の意思を表明し、その理由を「もう助からないから」などと説明し、その都度弁護人らの説得によって思いとどまるという経緯があったこと、本件控訴取下書を作成、提出するについては、事前に拘置所からの連絡によって接見に訪れた弁護人の充分な助言や説得を受けていると認められること、そして、被告人は、控訴取下書の用紙に自ら所要事項を記入し、当裁判所の審尋の際、早く死刑になって楽になりたいから控訴を取り下げたという趣旨の供述をしていること、被告人のこうした姿勢、考え方は、鑑定人との面接時の応答でも維持されており、本件控訴取下が単なる一時の気まぐれや気の迷いによるものではないと認められること等を総合すれば、被告人には本件控訴取下の行為当時、その意義を理解し、自己の権利を守る能力に欠けるところはなかったものと認められる。
次に、本件控訴取下が被告人の真意にでたものか否かについて検討するに、被告人は、本件取下の動機ないし目的について、前記のとおり、「もう助からないから」とか、「早く楽になりたいから」などと説明しているところからも窺われるように、現在自分が置かれている状況からみて、原審の死刑判決が重くのしかかっており、いわば八方ふさがりの状態で、助かる見込みがないことと、精神的な苦痛を味わっており、その苦痛から遁れるためには、むしろ早く死刑判決に服したいと考えて本件取下に及んだものと認められる。被告人は、生来やや知能が低く、表現力にも乏しいうえ、鑑定人が指摘する拘禁反応の影響がみられるので、その真意を容易には補捉しにくいが、被告人が、姿の見えない世界で一番強い人にいつも苦しめられているなどと供述するところを含めて考察すると、やはり被告人には、現状からの逃避願望があり、それが死刑になって早く楽になりたいという願望に強まり、本件取下に及んだものと認めるのが相当である。弁護人は、被告人が、自分から「死にたい」といったことはなく、また、被告人の態度から死を決意したような雰囲気は、全く感じられないという。たしかに、被告人はその心境をきかれて、本当は無罪となって出たいというようなこともいい、心から事件について反省したり、後悔するといった態度を示すこともしていないが、被告人が、控訴取下の動機等として供述するところが真意にでたものでないとはいえない。また、弁護人は、被告人が、本件控訴を取り下げた真意は、裁判所によって採用された精神鑑定に対する恐怖感から、これを回避することのみを目的としたものであるから、控訴取下の法律効果を認識、理解していないという。たしかに、精神鑑定の採用に対して被告人が反対を唱え、これが、本件控訴取下の発端となったことは所論のとおりであるが、その後被告人が、弁護人との充分な接見を経た後に本件控訴取下の行為に及び、裁判所の選任した鑑定人の面接を拒否することなく素直に応対したうえ、控訴取下の動機やその効果などについて、前記のとおり供述していることに鑑みれば、被告人が、所論のように控訴取下の法律効果を理解しないまま、本件控訴取下の行為にでたものとは到底考えられない。
以上のとおり、本件控訴取下当時の被告人の訴訟能力には、なんら欠けるところがないばかりでなく、その取下の行為は、死への願望に裏付けられている点で、やや特殊な動機というべきであるが、その置かれた状況に照らし真意にでたものと認められ、かつ、取下にこめられた被告人の意図に錯誤はないことが明らかであるから、本件控訴取下は有効である。
四 控訴取下の撤回の主張について
被告人は、平成三年四月二三日付で本件控訴取下書を作成して当裁判所にこれを提出した後、同年一〇月一九日付の実母宛の手紙の中で「控訴をやめないこと」、つまり控訴取下を撤回する意思を表明し、同年一一月一八日の事実取調べ期日においても、その意思を確認した。被告人が、この時期になって控訴取下を撤回しようとする真意は必ずしも明確ではないが、実母宛の手紙の中で控訴を取り下げないで続けたほうが、裁判をより早く終わらせることができるかのようにいう部分があることにも鑑みると、自己のした控訴取下の結果を意識しながら、その後における心境の変化を表現するものと認められる。
そこで検討するに、被告人のした本件控訴取下が被告人の真意にでたものでこれに錯誤がなかったことは前記認定のとおりであるから、本件控訴は、右控訴取下によって終了したものといわざるを得ないが、そうである以上、控訴取下の撤回により、いったん終了した訴訟状態を復活させることができないことは、最高裁判所の判例(昭和四四年五月三一日第二小法廷決定、最高裁判所刑事判例集二三巻六号九三一ページ)の示すとおりである。
五 結論
以上の次第で、被告人が平成三年四月二三日付でした控訴取下は有効であり、本件控訴は右取下により終了したものであるから、その趣旨を明らかにするため、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官小泉祐康 裁判官秋山規雄 裁判官川原誠)